非明示的コミュニティ論

フォークソノミーについて延々考え続けているのだが、フォークソノミーを利用している集団ってそもそも「コミュニティ」だと捉えることが出来る。
だって、フォークソノミー=分類を共有する(集団)でしょ?

え、WEB上のコミュニティって何かテーマを掲げて、それに対して賛同の手を挙げる=参加手続きをとるというプロセスを踏んで、閉じられた*1場に参入するというのが通例でしょ。という突っ込みはわかる。
それに、WEB上のコミュニティってその名称がきっちり主義主張を表しているでしょ。絵文字やギャル文字を使っている場合、外部からは表現している意味はわからなくとも、まぁ明確な立ち位置を持っているのはわかる。

フォークソノミーの場合、どう考えても閉じていない。
GREEフォトの場合、GREEに加入する時点で招待制だからコミュニティの一員でしょ、というかもしれないが、「GREEメンバーである」ということと上記で説明した既存コミュニティに参加していることとはレベルがぜんぜん違う。だって、GREEにもコミュニティ機能はあり、それはGREEにとっては下部構造だ。
はてなブックマークなんて、そもそも利用するのに誰の招待も受けずに済むしね。

でも、ランキングを見てサイトをチェックする人、沢山いるでしょ。
ランキングを見てサイトをチェックする人は自分でブックマークするでしょ。
自分でブックマークするとき、タグはつけるよね。
使っているうちにちゃんとほかの人が使っているタグの用法は確認するでしょ。
ついでにタグをベースにして他の人のブックマークを覗くよね。
ほら、きっちりタグをつけるというサイトの分類基準を共有しているのだ。
これ、コミュニティへの参加ですよ。

フォークソノミーで共有されるタグはいたってシンプルなものだ。基本は単語にすぎない。でもそのシンプルさがコミュニティを広める役割を果たす。しかも非自覚的に。非明示的なコミュニティとよんで差し支えないのではないかな。

個人的には強固に明示的な、=内外を差別し、コミットメントを要求する、、、はやいはなしが面倒くさいコミュニティは嫌いです。
誤解の内容にいっておくと、他者のために仕事をするのが嫌なわけでなく
フリーライダーにはならないように気をつけているつもりだ)、区分・差別・定義・ロイヤルティの強制が嫌なんです。念のため。

*1:物理的に閉じられたクローズドな掲示板、SNSのコミュニティもあれば、アクセス自体はオープンなんだけど、コミュニケーションに入っていくのに見えない障壁がある2ちゃんねるのようなケースもあるよね