INFOBARからINFOBAR2へ

買い換えましたよ。はい。
基本的に初期不良を恐れ、プラス携帯のように月単位で価格が下がるものを発売当初に買うつもりは一切なかった。

しかし、発売前からあちこちのauショップで予約完売&予約受付停止という状態を突きつけられ、あせりにあせって発売日前日、なぜか大量に在庫を確保していた店で予約をしたのでした。
その店がなぜか自宅の最寄り駅にあったのだから、これは縁というよりほかないんだろうな、と。

購入色はWarmGrey。角の取れたやわらかいデザインなのだから、やわらかい色調がいいな、と。MIDORIは、、、、、色自体は好きなのだけれど、あのシボ感を忌避してチョイスからはずしました。

INFOBAR(1)は電池パックを1回変えながら、結局42ヶ月ほど、つまり3年半引っ張ったわけで、、、よくがんばってくれたものだ。
こいつを買った際も、NISHIKIGOI/BUILDING/ICHIMATSU発売当時は様子見だった。(でも1の時は、発売日前に予約完売なんてことはなかったと思う。結構何ヶ月か後でも特にBUILDINGは量販店ですら店頭にあったはず)
しかし、半年後にいきなりANNINが出て、飛びついてしまった。ANNINは杏仁のモチーフ通り白いのだけど、表面を透明アクリルでカバーしてあるのでみずみずしさがたまらないデザインなのです。はっきり言って、2の4色よりも断然いい。
だから、電池がまたもや持たなくなってきていなければ、もしかしたらあと数年は1でがんばったかも。

しかし、4年ぶりに機種変するとその進化に驚く。しかも1X→winだからねぇ、、、
なんだ、このEZwebFLASH多様っぷりは、とか、変換機能が楽チンとか。
でも、また半年後にANNINとか、コンセプトモデルで出てた水色系とか出たら泣いてやるぅ、、、って感じですな。はい。

猛暑だからということではなく、、、

気づいてみたらこっちのブログにエントリ起こすの久しぶりですよ、、、
やはり、カリキュラムに一息ついたというのは大きい。

さて、今日はSHADOWBOXERでこんなエントリを見つけた。

よさこい」ってありますよね。不良(になりそこねた)少年少女たちが一所懸命踊り覚えて、みんなで一致団結してハレの日を迎えて、最後は号泣ってやつです。熱いんです。よくテレビでもドキュメンタリーなんかやってます。必ず元暴走族のヘッドとかっていうオトナが指導員みたいなのをやってて、途中で脱落者が出るけど、説得して引き戻したりとか。そういう熱いイベントです。私はあれが本当に嫌いなんです。ダメなんです。
〜SHADOWBOXER:「きょうのできごと」を観た〜

本当に共感。僕もダメなんですよ。まったくもってああいう文化。あくまでも(研究対象までも)ゆるく、そして結果重視の世界じゃないとやっていけない私、、、、

ちなみに、↑のブログってトラックバックは受け付けてないのですね。別にコミュニケーションを続けるためのエントリではないですが、、

仮説についての定義メモ

授業で文献として出された

フィールドワークの技法―問いを育てる、仮説をきたえる

フィールドワークの技法―問いを育てる、仮説をきたえる

の中にこのような定義があった。

・仮説の定義:経験的な事象を科学的に説明もしくは予測するために定式化された未検証な命題(もしくは命題群)

・拡張された仮説の定義:既にある程度分かっていることを土台(根拠)にして、まだよく分かっていないことについて実際に調べてみて明らかにするための見通しとしての仮の答え

というわけで、これを元に続きを書きますよ。
乞うご期待。

日本で少子化が進むのは当然である理由

この数日日経新聞少子化対策の連載コラムが載っていたり、全国でお産を取り扱う産婦人科がものすごく少なくなっているという報道があったりして、少子化をめぐる論議が盛り上がっている昨今、なんで子供を生むことにポジティブになれないんだろうと思ったら自分なりに結論が出た。

少子化によって真っ先に破綻する世の中のシステムは年金であり、年金問題は中高齢者VS若年層の世代間闘争であるというのは既にあたり前の話。
ま、年金納付者として見なくても、世の中で娘や嫁に「子供を生め」というおせっかいは「自分が年取ったときに面倒見てもらう人間が必要だろ(もちろん先に自分自身が嫁や娘見てもらうためのロジック」という暗黙の了解が前提となっている。

でも、21世紀の日本において、子育てが合理的な投資といえるだろうか。投資を回収するには子供にはそれなりの収入を確保できるだけの能力を身に着けてもらわなきゃならない。一番手っ取り早い方法として大学に行かせるという方法もあるが*1、子供を小中高とたとえ公立学校に通わせたとしても、それなりの大学に合格させるためには塾や家庭教師をつけたり、書籍をそれなりに買い与えなくてはならない。ま、子供を一人一人前になるまで育てるのにつぎ込まねばならない金額は下手すれば数千万してしまう。ついでに、母親は出産前後の数年は働くことができないし、その後職場に復帰しても勤務形態は制限されるわけだから、給与所得に対する機会損失は結構な額になる。

逆に言えば、子育てをしなければ30代とかで数千万円以上もの余剰資金が転がり込む。この金額をきちんと貯蓄・投資・直儀的には個人年金とかに回した方が(ここで家やマンションといった不動産を買わないことは重要かもしれない)実は老後に得られるリターンが大きくなるのではないか。

幾分(ずいぶん?)乱暴な試算だが、これが正しければ若年層が子供を生み、育てるという経済的合理性は全くなくなる。いくらなんでも出生を善意や母性本能に頼るというのはあまりに確実性がない。今、子育て支援などといっていろいろな施策が打ち出されているが、ちょっとした補助何ぞでこの計算式は逆転するとは思えない。ネオテニー戦略という言葉もあるが、個体そのものは強くなるのだが、その戦略があだとなって、種は減少する。ま、これは強者*2の個体を少なくするという自然界のバランスなのかもしれない。

あ、カウンターが1000を超えました。
ごらん頂いた皆様、ありがとうございます。

*1:別に大学に行ったからといってそれがそのまま高収入につながるかどうかは個別のケースによる。あくまでも確率論の問題

*2:21世紀の現在人類の勝ち負けを測る基準は経済力だ

「仮説」の意味

もともと市場調査の仕事をし、大学院で研究をし、かたわらウェブビジネスの実務の方とお話をさせていただく機会が増えるにつれ、微妙に単語の意味でひっかかりを覚えることが増えてきた。
もちろんコミュニティ(小さくは家族から、学校・会社、業界、地域・国家レベルまで)により言語体系が微妙に異なったり、同じ単語の意味が違うことがあるのは重々承知している。
しかし、学術だろうがビジネスだろうがすべての戦略~施策立案に関連するこの単語の”ゆれ”はなんとなく看過しづらいと思う。
なぜならば、クリティカルな議論で意味のゆれが起こると議論の効率があまりに落ち込むからだ。

「仮説」の意味を大辞林 第二版(といいますか、gooの国語辞典)から引くと、

かせつ 【仮説】

〔hypothesis〕ある現象を理論的に統一して説明するために立てられた経験科学上の仮定。その真偽の検証は、仮説から必然的に演繹(えんえき)された諸命題を実験や観察によるテストで確かめることによってなされる。検証された仮説は法則や理論として公認される。

仮説というのはここにあるようにもともとは検証するために立てる仮定であり、市場調査や学術研究では検証することありきで立てるものだ。というよりも、検証しなければ先に進めない。
これがより一般的なビジネスの現場になると、検証作業にかけられる時間・コストは制約がある。更に環境の変化が早いウェブサービス企業の意思決定の現場となると、検証するために大掛かりな調査なんて行わないことの方が多いはず。

なのでウェブサービス企業の現場では、検証を前提としない『仮説』が氾濫することとなる。
つまり「なんとなくそう思うのだけれど、確証がないアイデア」はすべて『仮説』と称される。
この意味合いの拡張により、
根拠としている事象やデータに根拠足りうるだけの妥当性・堅牢性(robustness)がない=仮説になりようもない事象やアイデアがいつまでも棄却されず、”かもしれない”という微妙な位置づけのまま議題に居座り続ける
ことが生じるのだ。

つい気軽に使ってしまう『仮説』という単語。
なんとなく”ロジカルに議論している感”をかもし出せるだけにこのような弊害が起こりえます。
単語の用法一つが意思決定を非効率化してしまう危険性にもっと敏感になるのではと思うのです。

システムエンジニアリングは今後不要になっていく??

情報ネットワーク社会の展開を読んで、大変な結論にたどり着いた。
それは、「システムエンジニアリングは今後不要になっていく」ということだ。
以下に述べる(ジャスト)アイデアは情報システムや情報学に関してまったく素人の意見なので、細かな定義については問わないでほしい、、というか、そんな揚げ足取りはやめてくれ。
内容について、異論・反論があれば歓迎する。

現在、情報システム(エンタープライズには限らない)が構築されている目的は大きく分けて二つであろう。

  1. 会計・経理・勘定・履歴管理といった数値データを収集・集計し、情報とすること
  2. 定性・定量問わず、社内に蓄積された情報を収集すること

ま、これを言う前に、情報はその形式から大雑把に

  • 定量データ(数値データ)→四則演算ができるデータ
  • それ以外のデータ→ 積み上げて計算しても意味がなく、個別それぞれを眺めるためのデータ

とに分類できるであろう。

前者の定量データを扱うにはデータそのものはもちろん、データが格納される入れ物のフォーマットも統一されることが必要だ。それを部門間で勝手ばらばらにやって、いざつなげて計算しようと思ってもどうにもならないからEAIなんてものが一時期流行ったわけだ。

でも、個別の企業でたかだか四則演算するシステムを一から作る必要なんてあるわけ??
もちろん、現時点でこの目的のためにとんでもない人と金が動き、現場が悲鳴を上げていることは知っている。(東証とか、、、、、)

しかし、大部分の企業は経理や人事部門をアウトソースしたり、企業グループ内で会社を作って一括処理したり出来るわけでしょ。
そうなると、パッケージを一部組み替えるだけで終わってしまう。
(少なくとも税制度が同じ国の中では)

だから、相当ユニークな会計処理やものの動かし方をしている企業に対してしか、オーダーメイドどころかカスタムメイドすら要らないわけだ。

一方後者の場合はどうだろう。データは個別に見ていくわけだから合算する必要はない。
ただ、「簡単にとりだせればいい」のだ。
典型的なのがナレッジマネジメントツールだろう。あと、スケジューリングなんていうのもそうかもしれない。
しかし、「簡単にとりだす」なんて、検索アルゴリズムがあればそれで済んでしまうでしょ。もっと目的に即して取り出したいのであれば、ユーザー各々がタグをつけて整理しながらデータを追加していけばいいのだ。タグは相互参照されるから、タグ付けの基準はおのずと修練していくはず。
スケジューリングだって日付・時間のタグさえつけておけば、場所など考えず”ただストレージに放り込んでおけばよい”
後から探し出す=抽出するときにインタフェイスをタグごとに並べて見せる形にすればいいだけなのだ。(だからgoogleカレンダーなるものが出来るわけだ)

となると、勘定系・基幹系以外に広がってきたシステムの役割も、検索技術+タグによってある程度代替できる可能性があるわけだ。

こうなると、本当にオリジナルでシステムを作りこむ領域はものすごく狭くなる。
もっといってしまえば、ERPはもちろん、データベースパッケージ(ORACLEとか)の存在意義すら揺らいでくる。

というのも、RDBはテーブルの定義が肝、つまり、どのフィールドのどういった形式のデータが入っているというデザインがあって初めてSQLが機能するわけだが、検索技術+タグを使えばフィールドやデータ形式なんてくそくらえだ。何も気にする必要がない。
もちろん、四則演算しなければだけれど。

そうなると、今SI業界は人不足で、、と騒がれているけれど、ほんの数年で受注がいきなり激減し、SIerシステムエンジニアが路頭に迷うなんてことも想像できてしまうのだ。

ここまで極端なことは起こらないかもしれないが、今後地道に設計図を組み立てる能力よりも、万能な道具をいかに使いこなし、それで得たデータからいかに情報を紡ぎだし、意思決定・行動にフィードバックできるかという総合力が試される社会になるのでは、と思うのだ。

情報ネットワーク社会の展開

これを読みました。

ちなみにこの本は1990年の発行。つまりもう16年も前(初出はだからもっと前)、つまりバブル全盛期を超えて破裂する直前。
だから、日本やシリコンバレーの状況について語る部分、特にリゾート開発に関するところなんて、「いやぁ、時代だね」という読み方になるのだけれど、この時、いやそれ以前のネットワーク組織論の時からすでに提示していることの中に、「現在進行形の事象じゃん」と思わざるを得ないものが多々ある。
そこから、以下のようなことを想起したので今日はとりあえずメモ。

そのような不確実性ないし不安定性に挑戦していくゆくには、組織全体に多様性を持たせ、情報の獲得の仕方に多元性をもたせなければならない。つまり、組織のそれぞれのところに、みずから情報を集め、みずから問題を解決し、状況を切り開いてゆく能力を持たせることが望ましくなる。一言で言えば、それは脱コントロールの方向となる。

つまり、組織のフラット化と意思決定の分散化の必要性なんぞ、このころから言われていたのですね。
「企業の境界をこえたプロセス共有」なんてこともすでに言及していて、フューチャー・オブ・ワーク (Harvard business school press)ファンキービジネスなんかが出るよりも遥かに前にそんなことは喝破されているんだな。

その製品を革新するには、細分にまでとことん分解していってそれぞれの内容を改良するか、統合のやり方を変えるかのいずれかである。そのような分解と統合のプロセスを組み替えることによってイノベーションは遂行されるのであり、したがって「連続的な革新」の下では組織やネットワークもたえず組みかえられる。

ただ単に権限を分散させるだけでなく、構築した体制・ネットワークの組み換えがたえず行われることが前提なのだから、体制・組織を前提とした設計をされた情報システムなど構築した瞬間からすぐに使い物にならなくなっていくわけだ。

少しばかり違いのある車、少しばかり異なるテレビやパソコン、DC=デザイン・キャラクターブランドといったところでほんの些細な際にこだわって売られるアパレル――そういった種類の差異を作り出すことがいったいなぜ知識の生産なのかと。確かに論争的な点であり、この小さな差異をどう考えるかが、現代の競争を評価する差異の争点でもある。

些細な差異が知識であり、それが経済を生む。例として挙げられている財にDCブランドなんていういかにも80年代末期バブルの香りは残っているが、しかし現在の経済・マーケティングにおいても全くそのまま当てはめることは可能だろう。情報で差別化できなければそれはもはやコモディティ経済だ。DELLのようにロジスティクスで差別するより他ない。